2週間後に行ったときに、再び認知症の話題になりました。

 そういえば、先日話した患者さんなんですが、ケアマネージャーに「その後、どうなったの」と聞いたんです。

  そしたら、ご家族は偉いですねぇ。

  お爺ちゃんの部屋中に大豆を撒いて、「おじいちゃん、すまないけれどこの豆を拾って集めてください」とお願いしたら、一生懸命豆を拾っているんですって。

  それで少し落ち着いているようです。

さ それは「存在感」の問題なのかもしれない。

  多くの人は何かを行ったときに、「自分の行動をわかっている」と思っている。

  しかし、本当は周囲からのフィードバックを受けて、「自分のやっていること」に気づくものなんだ。

  誰もいないところで、何かをしていてもそれが何をしているのかを認めてくれる人がいなければ、「自分がやっていると思っていること」が「本当におこっている」かどうかわからないでしょう。

  「自分のやっていること」を認めてくれる人がいるから、「自分のやっていることがわかる」ものなのさ。

  ところが認知症の人は、認知の段階で障害を持っている。

  さらに認知から行動に移るプロセスが混乱している。

  自分の外側の世界と、認知した結果の内側の世界がずれている。

  だから、行動が奇異に見えることがあるかもしれない。

  しかし、周りの人に「自分のやっていること」を認められて、フィードバックがかかれば、認知が容易になり、「内側の世界」と「外側の世界」の違いが少なくなるかもしれない。

  それが「お願いする」ということなのかもしれない。

  お願いされて、「ありがとう」と言われることは、子供の頃から体験している。

  それが社会からのフィードバックだということを「体験」として学習している。

  認知症になっても、その記憶は奥底の深いところにある。

  だから、「おじいちゃん、すまないけれどこの豆を拾って集めてください」とお願いすることが、そのおじいさんにとって自分の存在感を感じさせる行為だったんじゃないかな?