今は、2005/04/01ローマ法王パウロ2世が体調を崩しています。
右に載せたのは、本日の北海道新聞の記事です。
見出しの後に書いてあります。
【ローマー日共同】
容体が悪化したローマ法王ヨハネ・パウロニ世(八四)は、三月三十日も居室の窓から姿を見せ、信者と接しようとする努力を続けていた。
医師からは静かに休むよう助言を受けていたといい、宗教者としての使命感の強さが災いしたといえる。
これは非常に無礼な文章です。
ローマ法王は「人間は死ぬ」と知っています。
当然、自分が死ぬことも承知なのです。
知っていて、残りの時間が少ないと思うからこそ、信者と接する時間を望んだのでしょう。
わたしが主治医なら、「静かに休めば、休まないより長生きできるかもしれません。
しかし、医学は『あなたがどのように生きるか』を制限するものではありません。
『あなたが望むことを実行するときに、それを邪魔しているものを取り除くことを手伝うもの』です。
自分のやりたいことを知っていて、自分が何をしているのかを知っているのなら、やりたいことをしなさい。
邪魔物を取り除くお手伝いをしてあげましょう。
そのために今死んでも骨は拾ってさしあげます。
好きなことをしなさい」と後押ししてあげるところです。
気づいたでしょうか? この記事は法王の行動を評価しています。
心理療法のページで紹介したエリス、パールズ、ロジャースに共通するのは、「クライアントを評価しない」ということです。
評価すると、良いか悪いかを決めることになります。
その途端に苦しくなります。
ある人を評価するときには、その人のの行動を自分の基準で測定しています。
誰もほかの人間の行動を決定することはできません。
法律で禁じても、悪いことをする人はいます。
行動を決定するのは、相手なのです。
ですから、相手の行動を評価した途端に苦しくなります。
自分の決定の及ばない「外側の世界」をコントロールしなければならなくなるからです。
「その人の行動を評価してもコントロールしなければ良い」と言うかもしれません。
しかし、もしコントロールしようとしないのなら、相手がどんなことをしても、あなた自身は「相手はそのままで良い」と思っているのです。
ですから、コントロールしようとしなければ、「行動の評価」は不要です。
「自分の評価基準ではなく、社会の定めた評価基準を使えばよい」と言うかもしれません。
しかし、自分の基準以外の基準で評価することは、ほかの人の定めた基準に自分がコントロールされていることになります。
これも苦しいのです。
「行動を評価する」という言葉の裏には、「コントロールしなければならない」という観念が張り付いています。
これが「評価することの苦しさ」になります。
ですから、「他人を評価しない」ことが、楽に生きるためには必要です。
「評価しないでどうするのか?」と言われるかもしれません。
そのために、人間性心理学といわれる一群の心理療法では、「あるがままを認めよ」と言うのです。
人を評価するということは、「あるがまま」を認めないことです。
「あるべき姿」を想定しているのです。
あるがままを認めれば、それは変えようのない事実と認められますから、「今、ここ」をはっきりと感じて、次に進めます。
このように考えると、「宗教者としての使命感の強さが災いしたといえる」という意見は、非常におせっかいです。
法王の容態の変化を「災い」と評価することは、法王の人生を理解しないどころか、この記事を書いた人間と新聞社の考えを法王に押し付けていると気が付きます。
わたしはキリスト者ではありませんが、新聞を読んで腹が立ちました。
しかし、このエッセイを書いて気が付きました。
これを書いているわたしも押し付けがましい。
法王が知ったら、「そんなことを気にしてはいけない。ほかの人を動かそうとするから苦しくなるのだよ」と言うかもしれません。