昼休みに何気なくテレビを見ていると、三代目三遊亭円歌師匠が、弟子の歌の介と一緒にテレビに出ていました。
師匠が5分くらい演じ、歌の介が10分くらいやりました。
それを師匠が横から見ている。
ふつうとは逆です。
歌の介は新作落語を演じていました。
うまい。沖縄の年寄りの噺なのですが、うまく情景をとらえていて、滑稽さがでていました。
二人が演じた後、インタビューになりました。
歌の介は鹿児島出身なので円歌師匠は「江戸っ子じゃない奴が、江戸弁を使うことはない。国の言葉でやれ」と言って、鹿児島弁でやらせたそうです。
師匠は「今では、自分より新作落語がおもしろい」と言います。
この円歌師匠は若いときには、歌奴という名前で、「授業中(山のあな)」という新作落語の名作を作りました。
その師匠が「自分より新作落語の作り方がうまい」と言います。
新作落語のネタは日常何気ないものがよいのです。
ふつうの人が何気なく見過ごしているものに焦点を当てて、その中に滑稽さを見つけると新作落語になります。
アナウンサーが、「新作落語のネタを見つけるにはどうするのでしょう」と聞きました。
師匠は「新作落語のネタを拾うには、いつでも捨て目・捨て耳を利かせなくっちゃいけない。
ぼんやりしていてはネタは拾えない」と言いました。
何気なくテレビを見ていて、この言葉を聞いびっくりしました。
「捨て目・捨て耳」は私にとって初めて聞く言葉でしたが、このときのコンテクストははっきりとひとつのことを示していました。
「捨て目・捨て耳を利かせる」というのは、「目に見えること、耳にはいることにいつでも注意を払っておく」ことです。
多くの人は、見えているものを見ていません。
聞こえているものを聞いていません。
落語家は、ふつうの人が見過ごし聞き逃しているものに注意を払うことで、その中に意味を見いだして、滑稽さのネタにできるのです。
多くの人が注意を払わないだけに滑稽さを見いだせば、客は驚き喜びます。
人を笑わせている落語家は、笑わせるために常に「捨て目・捨て耳を利かせて」いるのです。
そして、この「捨て身・捨て耳を利かせる」ということは、つねに「気づく」ことです。
いつもアウェアネスにあることです。自己実現していることです。
ふーん、一芸に秀でるということは、結局「気づく」ことなのですなぁ。
あれっ、こんなことに気づいたわたしも・・・
演歌一門の紹介とお写真はこちらのページへ