○月○日
母のいる札幌へ行った。
お昼にバイキングの店に入った。
食べ終えて、見ると高校生の息子のお皿にパンが残っている。
取ってきて、一口食べたら、マヨネーズ入りのパンと分かったらしい。
彼はマヨネーズが嫌いなのだ。残していくと言う。
わたしは「その皿を持って、いっしょにレジに行こう」と言った。
彼は「えっ、これは残していくんですよ」と不服げに言った。
「バイキングは、一定の料金を払えば食べたいだけ食べてよい。
しかし、それは捨ててよいということではない。
自分のよそった分を食べずに捨てるのは自分の責任だ。
だから、そのパンのお金を払って持って帰る」と私は言った。
4男は「わかりました。食べます」と言って怒りながら嫌いなパンを無理やり食べた。
母の家の整理をしてから、2階にあがったところに4男がいた。
「おまえはお昼ご飯に何を学習した」と聞いた。
「えっ」と言って、何を答えていいか窮していた。
「横暴な父には逆らっても無駄だということか?」と聞いた。
「いいえ、自分の取ったパンは食べなければならないということです」と彼は答えた。
「ははは」つい、声をあげて笑ってしまった。
「それはおまえが学習したものではない。
それはおまえの外側の世界の通念だ。
おまえの内側に生じたものではない。
む そんなものはただの知識だ。
おまえが今日学習したことは、『パンを選ぶときには、自分が食べられるものかどうか、確認する』ということだろう。
つぎからは、飛びつく前に、それが何かを調べることができる。
それを学習した。
しかし、それでも十分ではない。
調べても食べてみなければパンの味は分からないのだ。
だとすれば、おまえはまた同じことに出くわすだろう。
そのときに、おまえは、責任をとらずに残すこともできる。
しかし、今日、食べたように自分の失敗の責任をとって、嫌いでも食べられることを体験した。
つまり、『失敗したときに、自分のやりたくないことでも、やりとおしてその責任をとることをできる』ということを学習した。
だから、これから、おまえは何かを選択するときに、失敗を恐れず自由に選択できるのだ。
『その選択の結果を自分で責任を取れれば、失敗を恐れずにすむ』ことを学習したのだ。
もうひとつある。
あのとき、レジに持っていっても、レジ係りは『お金は要りません』と言ったかもしれない。
私たちの周りのテーブルには平気で残してあった。
そんな光景をコックは悲しく思っているだろう。
だから、『残したものの代金を払う』といえば、あのレストランの職員は自分たちの仕事を正当に評価されていると感じただろう。
おまえが今日、パンを残してきたとしよう。
そうすると、おまえが何かを作って、それを『気に入らない』と捨てられても『やめてくれ』と言えない。
しかし、さっきのパンを食べたから、おまえは自分の将来にその権利を残した。」
彼はそんなことを考えてもいなかったのだが、「はい」と答えた。
あとでいつものようになついてきたところを見ると、少しは理解したらしい。
彼はバイキング料理のパンを残していこうとしたときに、自分が何をしているのかに気づいていませんでした。
実は、わたしも気づいていませんでした。
しかし、彼がパンを残していく感覚をすんなりとは受け入れられませんでした。
そのとき自分の中に起きていることを感じてみました。
わたしの中でしっくりこなかったのは、「パンを食べることと、捨てることは違う」ということでした。
それを解決する方法は「パンの代金をはらうこと」でした。
しかし、彼は不服でした。
2階で話したとき、わたしは自分が今、何をしているかを知りながら、話していました。
自分が息子のゲシュタルトの形成を促すように話していることを感じながら話していました。
自分の中にあるもので、ベイトソン、コージブスキー、パールズ、グルジェフの語っていることと同じことを話しました。
わたしは「自分がやっていることを知っている人だけが、自分のやりたいことができる」というモーシェ・フェルデンクライスの言葉の意味をこのとき実行し、ゲシュタルト療法のパールズのやっていることを感じたのです。
理論はツールです。理論を学習することは、ツールを手に入れることです。
そして、持っているツールを今、自分がどのように使っているかを知っているときに、上手に使えます。