十牛図
十牛図(じゅうぎゅうず)は、十牛禅図(じゅうぎゅうぜんず)とも呼ばれます。
悟りにいたる道筋を、牛を見つけ、てなづけ、連れ帰り、ともに暮らすことにたとえた十枚の絵です。
牛は悟りの象徴とされています。
1. 尋牛(じんぎゅう)
[絵の解説]
「牛がいるよ」と教えられます。
しかし、どこを探せばよいかわかりません。
どこを探そうかという絵です。
[内容]
先達から「悟りなさい」とか、「悟りの境地に至ると・・・」と聞きます。
「悟る」ということがあるらしいことはわかりますが、どうすれば「悟りの境地」に至るかわかりません。
誰も具体的には教えてくれません。途方にくれます。
2. 見跡(けんせき・けんじゃく)
[絵の解説]
あちこち探していると、牛の足跡を見つけます。
この足跡をたどれば、牛にたどり着くでしょう。
[内容]
「悟りを開く」ためにいろいろなことをします。
修行をしたり、古典や教本を読みあさります。
その中で、「あっ、これかもしれない」というヒントを見いだします。
それが、どのように発展するかはわからないのですが、そのヒントを元に探るしかないのです。
3. 見牛(けんぎゅう)
[絵の解説]
牛の足跡を追っていくと、牛の一部を見つけます。
全体は見えませんし、どんなものかは全くわかりませんが、「あっ、あれが牛だ」とわかります。
[内容]
「悟り」に至る方法のヒントを得て、優れた師を見つけます。その師の教えに従い修行するうちに、「あっ、これが悟りかもしれない」と思うのです。
しかし、一部しかわかりません。
まだまだ、半端な悟りもどきです。
4. 得牛(とくぎゅう)
[絵の解説]
見つけた牛を力づくでつかまえます。
まだまだ、自分の牛になっていません。
それでも、何とか自分のそばに引き寄せます。
[内容]
ときどき、「悟る」のですが、いつでも悟っているではありません。
はっと気がつくと、悟りから離れたことをしていることに気づきます。
自分のものになっていないのです。
5. 牧牛(ぼくぎゅう)
[絵の解説]
つかまえた牛をてなづけます。
だんだんと、牛を自分の望む方向に連れて行けるようになります。
[内容]
今あるものを基にして思考すること、現在のことに基づかない理想・願望や常識を鵜呑みにすることをやめる修行をすることで、だんだんと悟っている頻度が高くなっていきます。
しかし、常時悟っているのではありません。
6. 騎牛帰家(きぎゅうきか)
[絵の解説]
牛をてなづけ、思うように動かせるようになり、牛の背に乗って家へ帰ります。
[内容]
世俗の欲が悟りをひらくことを邪魔するので、悟りを開くための修行は世間を離れて行います。
悟りを開いたら、世俗の影響も問題にならなくなります。こ
うして、世間に戻ることができます。
7. 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)
[絵の解説]
牛を探しててなづけて連れ帰ってしまえば、牛を探し求める必要はなくなります。
家に戻って日常の生活をするうちに、牛のことを忘れます。
[内容]
悟ってしまえば、特にいつも「悟り、悟り」と考えている必要はありません。
悟りのことなど、口に出さずとも、いつも悟った行動をします。
8. 人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)
[絵の解説]
人は牛を忘れ、牛も人を忘れます。
特に、「牛だ。人だ」と区別して騒がずとも、一体となって生活できます。
[内容]
悟りを得た人は、何か特別な存在になったのではありません。
自分が今、何をしているのか、どんなことを感じているかを知っていることが、「悟り」であり、人間の本来の自然な態度です。
特に「悟り」なんて言わなくても上手に生きていけます。
9. 返本還源(へんぽんげんげん)
[絵の解説]
牛と人とともに本来の姿に戻り、根源に還ります。
[内容]
悟るとは特殊な状態ではなく、自分の感じていることに基づいて、考えること、自然に逆らうことなく生きるようになります。
そうなれば、生物としての根源、自然の一部となります。
10. 入垂手(にってんすいしゅ)
[絵の解説]
(てん)は「街」のことです。街へ出て、手を垂らして誘うことです。
牛を得て一体となった人が、街に出て若い人々に「牛がいるよ」と教えます。
[内容]
自分がどこにいて何をしているかを知っている人は、自分だけが悟っていればよいという態度ではなく、ほかの人々が言葉や思考で迷い苦しむことから抜け出ることを手伝おうとします。
押しつけはしませんが、知りたいという人には手をさしのべて方向を示したり、ヒントを与えます。
「悟り」のプロセスを示すものとして、上のように解説できます。
この解説は、同時に「(センサリー)アウェアネス」の説明となります。
センサリー・アウェアネス
「感覚に基づいて気づけること、それを受け入れていること」がセンサリー・アウェアネスです。
アウェアネス介助論のアウェアネスはセンサリー・アウェアネスです。
このアウェアネスとは、特殊な状態ではなく、「感じることを基礎として、現在の状況を受け入れること。
それに基づいて思考すること、行動すること。
その結果を感覚を通して事実として受け入れて、思考や行動を変更する」という態度です。
0. センサリー・アウェアネス以前
多くの人は自分のやりたいことがうまくできません。
何かが邪魔をしています。他の人が邪魔をしていると考える人もいます。
自分の能力が足りないと考える人もいます。道具がないと嘆く人も、トレーニングを受けられないと悲しむ人もいます。
そうしているときに、「センサリー・アウェアネスという『体験から学ぶワークショップ』がある」という話を聞きます。
しかし、それがどのような学習なのかは全くわかりません。
尋牛の段階です。
センサリー・アウェアネスとは何かを探っていくと、本やインターネットの情報が得られます。
しかし、内容は見当がつきません。
見跡の段階です。
1.ワークショップ
センサリー・アウェアネスはワークショップの形で教育されます。
ワークショップというのは、いろいろな動き方や行動をしてみるワークの組み合わせです。
センサリー・アウェアネスとは、感覚を通して気づくです。
ですから、言葉では教えられません。
動いたり、ただ黙って感じることで、気づくかもしれないワークを繰り返します。
同じワークを行っても一人ひとり感じることは違います。
同じ人でも、同じワークを2回目に体験するときには、違うことを感じます。
時間や気温が変わっても感じることは変わります。
何を感じるかは予測できません。それでも、何かをすると何かを感じます。
教師はつねに「何を感じましたか?」と問うて、感じたことに焦点を当てることを促します。
そうした体験から、参加者は感じることを大切にすることを学習していきます。
ワークへの参加は自由です。
途中から離脱しても良いですし、途中から参加しても良いです。
ほかの参加者を邪魔しなければ、全ての行動が許されています。
自らが発見することを許されている最高の学習環境です。
この段階が見牛に当たります。
ワークショップに参加してセンサリー・アウェアネスの教師からいろいろな体験を授けられます。
教師の能力の高さに驚き、「この学習を進めたい」と思います。
2. シェアリング
ワークの合間にシェアリングがあります。
これは、自分の感じたことについて参加者に話すことです。
自分の体験を分かち与えることがシェアです。
体験をシェアすることを強制されません。
シェアしてもしなくても良いのです。
シェアする内容について批判・批評・評価されることはありません。
ただ、提供するだけです。ときには、シェアリングされている言葉の意味がわからないことがあります。
質問はされますが、「その言葉は間違っている」という非難はされません。
時には、シェアリングに慣れていない参加者が「正しい言葉を使え」と非難することがあります。
その場合は、ワークショップを指導する教師が、その非難をかわします。
シェアリングの中でも、教師は「何を感じましたか?」と問うて、感じたことに焦点を当てることを促します。
シェアリングの中で自発的に語ることで、参加者は自分の体験に言葉をつけていきます。
今まで感じることを許していなかった人は、なにか新しいものを感じます。
しかし、今まで感じていないので、うまい言葉が見つかりません。
うまい言葉が見つからない人は、他の人の体験を聞くだけにします。
うまい言葉を見つけた人は語ります。
その言葉をきいて、「あっ、私も同じ体験をした」と思う人は、他の人の言葉から自分の体験につける言葉を学習します。
このようにして、各人は、「自分だけが理解できる言葉(内言に近い)」、「他の人に伝えられる言葉(外言に近い)」を学習していきます。
「今は言葉にできない体験」があることを知ります。
「言葉にできることは体験の一部に過ぎない、体験を全て言葉にはできない」ことを知ります。
「まったく言葉にできない体験」があることを知ります。
このような「まったく言葉にできない体験」は語ることではないことを学習します。
シェアリングの中で、適切な言葉が見つけられないときは、いろいろな言葉をつなげて解説します。
このようにして、言葉の意味は単語で伝わるのではなく、単語の並べ方=文脈で作られることに気づいていきます。
言葉でうまく伝えられないときは、身振りや再現が行われます。
言葉の意味は単語の中にはなく、周囲の状況を含めた文脈(context)の中にあることに気づいていきます。
このシェアリングは、幼児の言語取得プロセスと同じです。
幼児は、周囲の言葉を聞き取り、それを自分の体験につけます。
その言葉は自分だけに意味(=体験)がわかります。
この言葉を使って思考することができます。
この段階では、他の人に伝えられません。
自分の使う言葉に他人がどのように反応するかを体験していくと、自分の使っている言葉が相手の中に作る意味を知るようになります。
こうして、他人に伝える言葉を習得していきます。
シェアリングが言語習得のプロセスですから、教師は参加者が非難されないように守っているのです。
3. 変化
参加者はワークの中で「自分が感じられること」「今まで感じることを抑制してきたこと」「感じることを自分に許してもよいこと」を学習していきます。
シェアリングの中で、「体験に言葉をつけられること」「体験について語るとき、相手に自分の体験を伝えられるだろう言葉を選べること」を学習していきます。
このようにして「言葉の選びかた」を学習した人は、「言葉を丁寧に使うことが大切である」と気づきます。
この「言葉を丁寧に使う」ことは、一般意味論の教育と同じです。
一般意味論は、言葉の乱暴な使い方がトラブルの元であることに気づかせます。
センサリー・アウェアネスは感じることを大切にすることから、丁寧な言語化を気づかせます。
思考は言葉の連続です。
ですから、どの道から入ろうとも自分の感じていることに丁寧に言葉をつけることを学習した人は、現在の環境に即した思考をします。
言葉の連想による抽象的な思考に迷い込みません。
自分の感じていることを基盤として具体的に思考できます。
実行できない目標を掲げて、空回りすることはありません。
周囲から「悟っているね」と評価されます。
このようにして、ワークショップを終え帰ります。
日常生活に戻りますが、感覚を大切にする態度が残っているので、今までとちょっと違う考え方ができるようになります。
それによって、うまくいくときもあればうまくいかないときもあります。
得牛の段階です。
このようにして毎日の中で感覚を大切にすることになれていきます。
すると、かつて自分は現在の環境から感じることを無視して、理想や常識に従おうとしたり、他の人からの期待に応えようとしていたことに気づくようになります。
それらをやめていくと心が平穏になり、楽になってきます。
牧牛の段階です。
そうしていると、日常生活の全てがセンサリー・アウェアネスのワークになります。
自然環境の整った中で特殊なワークをしなくても、自宅の居間でも酒場や工場の喧騒の中でもどこでもワークができると気づきます。
騎牛帰家の段階です
だんだんとセンサリー・アウェアネスという言葉で表現する必要がなくなります。
自分の毎日の生活そのものであることを受け入れるようになります。
忘牛存人の段階です。
このようにしていると、センサリー・アウェアネスということも忘れます。
生物としての人間の当然の生き方、態度ですからあえて言葉にすることはなくなります。
人牛倶忘の段階です。
感じることを基にして生きるようになります。
子供のように行動しながらも社会からは排除されずに生きていられます。
周囲の人や社会、自然と共に生きることができます。
返本還源の段階です。
センサリー・アウェアネスを教えなければならないとか、みんなが知らなければならないというものとは考えませんが、「知ると今より少し楽になれるかもしれないな」と周囲に話すようになります。
「教えて欲しい」という人がいると、体験を提供します。
しかし、「こうしなさい」とは決して言いません。
体験を提供するにとどまります。
学習は本人の中で体験から醸し出されることを経験しているからです。
入てん垂手の段階です。
4. 効果
多くの人が、いつも「なんとかしよう」とします。
自分の考えているように、現状を変える、他の人を動かすことを考え、その方向に行動します。
何かを行うには考えること、計画すること、がんばることが必要と考えています。
しかし、自分の望む方向が、「実際的でない」ために完遂できません。
つねに、現状から抵抗されます。抵抗を受けると、その抵抗をねじ伏せようとします。
「他の人が言うことを聞いてくれない」「世の中が悪い」「みんな頭が悪い」と考えます。
そして、ますます、「他の人を自分の思い通りに行動させよう」「こんな世の中は壊れればいいんだ」「(私の言うことを聞かせるような)教育をしよう」と考え、その方向に行動します。
しかし、いつでも自分の考えていることを基準にしていますから、望みは実現できせん。
このプロセスの中の「なんとかしよう」「がんばれば何とかなるはずだ」という態度が実際的ではありません。
「自分が『現実』とみているものは,現在の自分の環境そのものではなく、環境そのものを感じて,それをもとに考えているものであること、自分の感じられる範囲でしか『現実』として把握できないこと」に気づけば考え方は変わります。
現在の自分の環境すべてを感じ取ることはできないのですから,「まず、今、ここで感じ取って対処できることをしよう」「他の人にやらせようとせず、自分のできる範囲だけをやってみよう」「言葉では伝わらないことがあるから、まずはやって見せて、その後はその人の判断に任せよう」と考えるようになります。
感覚に基づいて把握したことを中心にして考えるようになります。
現在の環境から自分が感じ取れることに基づいてできることをすれば、現在の環境から抵抗されることはありません。
センサリー・アウェアネスと悟り
人が「悟る」というのは、「現在の環境に即した思考と行動ができる」ことです。
「なんとかしよう」というのは、実際とは違うことを押し通そうという欲です。
「悟り」は欲と反対側にあります。
「悟り」自体は仏教ではありません*1。
「悟り」とは実際を受け入れ、気づくことです。そのために、香を焚いたり、袈裟を着て経を唱える必要はまったくありません。
多くの宗教が「悟り」を目標にしますが「悟り」自体は宗教で得られることではありません。
宗教にしがみつくという欲が「悟り」を遠ざけます。返本還源という段階になれば、宗教にこだわらなくなるでしょう。
禅や修行が必要だと考えて出家し寺に住んで一生を過ごす人は、返本還源の域を超えていません。
還俗して社会に戻り在家となり、上手に商売をおこない金儲けして、その利益を社会に還元することが入てん垂手の域です*1。
医療やリハビリや看護や介護について言えば、現場で苦しみ、自らの体を痛めた後、体を守ること、感覚を大切にすること、他の人は自分と違う考え方をしていること、それら全てを受け入れて考え行動し、それらをフィードバックとして活用して行動を変化させていくようになった人は、返本還源の域に入った人です。
そのような人が実践しながらいわゆる臨床実習指導者となれば、入てん垂手のレベルの最高の教育者でしょう。
たんに理論だけを教育するのであれば、欲だけで生きる凡人レベルの教育になります。
アウェアネス介助論の世界観
アウェアネス介助論は、アウェアネス=「悟り」というものを基本にしていますから、ときどき仏教的な表現が出てきます。
そのため、アウェアネス介助論は、宗教的だと誤解されるかもしれません。
しかし、じつは
「宗教や倫理や哲学は『現実』(現在自分を取り巻く環境と自分自身)を言葉で解釈しようとする。
しかし、『現実』とは,言葉で表現できるものを超えたもの=感覚による体験である」
という世界観・態度からできています。
*1 「悟り」を得たブッダは、いろいろな人を教え導きました。
しかし、ブッダは袈裟を着ろとか香を炊けというような宗教を作ってはいません。
ブッダの生き方=哲学を教えました。これを後世の人が、あがめ奉り、なにか神秘的なことであるかのように装い、形式をてんこ盛りにして宗教にしました。
ブッダの言葉は仏教という宗教の教典に残っています。
しかし、ブッダの教えそのものは、仏教哲学と呼ばれ、仏教という宗教とは別物として扱われます。
*2 釈迦の弟子に維摩(ゆいま)という人がいました。
この人は、金持ちの商人で出家せず在家のままで、釈迦の弟子となりました。
ほかの出家した弟子のように抽象的なことは語らず、現在のことに基づいて思考し行動しました。
そして、ほかの弟子との問答でも秀でていました。教典の「維摩経」に書かれています。
維摩経について読みたい方は超訳文庫 「維摩経」がおすすめです。